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誰もが安心して移動が出来る社会へ

制度や技術の革新と意識の転換を

宿利 正史(しゅくり・まさふみ)1951年山口県生まれ。74年東京大学法学部卒業、運輸省(現・国土交通省)入省。自動車交通局長、総合政策局長、大臣官房長、国土交通審議官、事務次官を歴任。2013年東京大学公共政策大学院客員教授。18年一般財団法人運輸総合研究所会長に就任。


分刻みのダイヤに基づき正確に運行される新幹線や私鉄・地下鉄、丁寧に間違いなく運ばれる貨物等、日本の公共交通や運輸体制は世界的にも評価が高い。しかし、少子高齢化による地方の過疎化や人手不足の他、脱炭素化の動きや国際情勢の緊迫化に伴うエネルギー価格の高騰等で、運輸業界は苦境に立たされている。医薬品・医療機器のサプライチェーン(供給網)や患者の通院の足等で、医療業界とも関係の有る運輸業界だが、果たして今後も安定した運輸体制を維持出来るのだろうか。日本の公共交通や運輸の現状や課題について、元国土交通事務次官で、一般財団法人運輸総合研究所の宿利正史会長に話を聞いた。

——日本の公共交通は、海外と比べ、どの様な特長と課題が有るのでしょうか。

宿利 日本では基本的に、民間事業者が企業経営によって公共交通サービスを提供していますが、海外では国や州、市等が公的サービスとして公共交通を担うのが一般的です。日本の良い点は、国鉄から民営化されたJRを始め、民間企業が創意工夫し、競争しながら様々なサービスを提供する事です。これにより、利用者の利便性が増していく。その典型が東京で、日本経済が長く停滞している中でも、路線の拡張を続け、「世界で最も便利」と言われる鉄道ネットワークを作り上げました。人口が1500万人に迫る大都市で、これだけの公共交通網は他に例が有りません。この面では、民間企業主体の日本の公共交通は成功を収めたと言って良いでしょう。更に、日本には新幹線が有ります。嘗ての国鉄の技術の粋を集めたこの国家的インフラが日本社会の大動脈となり、経済や社会活動を支えています。一方で、人口の減少が進む地方ではバスや鉄道の利用者が減少し続けており、路線や運行本数を減らさざるを得ない。その上、長年赤字経営を続けてきた交通企業は、コロナ禍で更に大きな赤字を抱えてしまった。これに対し、政府は交通企業への十分な財政支援を行わなかった。この様に、大都市部とその他日本の大半の地域との格差が大きく広がってしまったのが民間企業主体の日本の公共交通の大きな問題です。

——欧米では公共交通機関への支援が手厚い?

宿利 日本では、人口10万〜20万人位の都市ではLRT(次世代型路面電車) は走っていませんが、欧州では人口の少ない地方都市でもお洒落なLRTやバスが数多く運行され、街が住民や観光客等で賑わっています。それらは公共サービスとして、基本的に公費で運営されている為、採算に左右される事無く広域的に且つ便利に交通サービスが提供され、利用者の負担も抑えられています。日本の場合は、民間企業による自立的な経営を前提としており、赤字補助金を除き公費の投入は難しい現状に在ります。

——現在の日本の運輸交通システムが抱える最大の課題は何でしょうか。

宿利 適切なバランスを取る為の効果的な施策を欠いた結果、社会全体が過度なマイカー依存に傾き、バスや鉄道等の利用者が減少して公共交通が著しく劣化した事でしょう。東京や大阪等、一部の大都市の中心部以外では日常的に利用出来る公共交通サービスが乏しく、マイカーが無くては生活が出来ない地域が全国の大部分となっています。又、高齢者によるマイカー事故の増加も大きな社会問題となっています。かと言って、運転を止めてしまえば外出の手段を失い、生活の質が著しく損なわれてしまう事になる。この行き詰まりを打開し、公共交通を維持・確保する為の抜本的な変革が求められています。

——少子高齢化による人手不足も深刻です。 

宿利 これ迄バス路線の廃止は、利用客の減少が主な理由でしたが、最近は運転手不足が要因となるケースが増加しています。バス会社等も運転手の採用に努めていますが、人材が確保出来なければ、必要最小限の人数で十分な運行が可能な仕組みへと移行せざるを得ない。その為には、運転の自動化の導入が急務であり、一方で外国人が日本人ドライバーと同様に活躍出来る制度の構築と定着も不可欠です。

移動困窮社会からの転換を図るには

——課題の解決には、何が必要ですか。

宿利 移動手段の確保が困難な社会を「移動困窮社会」と名付け、昨年春に、機械工学の鎌田実東京大学名誉教授と『移動困窮社会にならないために』(時事通信社)を上梓しました。その中での提案の1つが、乗り合い自動車のAIオンデマンドの活用です。尤も、地域の公共交通を誰もが安心して、安全且つ安価に利用出来る持続可能な仕組みに変える為には、AIの活用だけではなく、制度の抜本的な革新により公共交通を支える新たな法整備と財源の確保が不可欠です。その為に、運輸総研では本年6月30日に、緊急提言「地域交通制度の革新案」を発表しました。提言の柱は、地域交通を「公共財」且つ社会資本として制度的に明確化し、その確保を地方自治体が責任主体として担うべきだとする点です。住民の「移動」は福祉・医療・教育等と同様に基礎的な住民サービスであり、地方自治体が責任を持って対応し、国がこれを支える仕組みへと転換する必要が有ります。こうして地域交通の性格と責任主体を制度上明確にする事は、国や自治体による公的負担の根拠を確立する事にも繋がります。勿論、日本の財政状況を鑑みると、ヨーロッパや米国の様に何兆円も支出するのは難しいでしょう。しかし、例えば文部科学省は過疎化地域のスクールバスに、厚生労働省も介護・福祉輸送に補助金を出す等、地域住民の移動に関する支援が各省毎にバラバラになっている。これらを統合的に一括して支援するだけで、地域交通の効率的で効果的な運用が可能になります。現在、政府や関係者に対し提言の説明を行っており、来年の通常国会での法案提出を求めると共に、日本の社会を大きく変えていく為の真摯な議論を期待しています。

——これ迄の国の取り組みは不十分だった?

宿利 国は2000年前後に、競争原理の導入を目的として運輸分野の規制緩和を進めました。しかし、利用者の少ない地方路線では民間事業者の撤退が相次ぎ、公共交通の維持が困難になりました。そこで、私が自動車交通局長を務めていた06年に道路運送法を改正し、自家用車も一定の条件で旅客運送が出来る自家用有償旅客運送制度、所謂「公共ライドシェア」を導入しました。更に翌年には、「地域公共交通活性化再生法」を制定し、地方自治体が地域の公共交通について主体的な役割を果たす枠組みを整えました。しかし、地域の公共交通を確保するには、もはやこれらの措置だけでは不十分であり、交通政策基本法に基づき更に踏み込んで、制度を革新して課題解決を図る抜本的な措置が必要である——というのが今回の提言の趣旨です。

——地域では新たな交通サービスが始まっています。

宿利 岐阜県白川町と東白川村では、21年10月から段階的に病院の無料送迎バスと路線バスを統合し、通院患者に一日乗車券を発行する事で、バスの運行効率と利便性が向上しました。民間企業の取り組みでは、18年にトヨタ系列の自動車部品メーカーのアイシンが愛知県豊明市で運行を開始した乗り合い型のAIオンデマンド交通サービス「チョイソコ」が、24年12月の時点で、全国90の市町村で運用されています。配車予約や運行ルートの決定は、愛知県刈谷市の本社内のセンターで一元的に行われています。又、19年に西日本鉄道と三菱商事が共同出資して設立したネクスト・モビリティが開始したAIオンデマンドバス「のるーと」は、現在全国50カ所以上で運用されています。10人乗り程度の小型の車両を用い、AIが最も効率的な運行ルートを自動で設定し、タクシーの利便性とバスの効率性を併せ持っています。

平和が有ってこその運輸・観光の発展

——医薬品や医療機器等の安定供給と迅速な輸送の確保には何が必要でしょうか。

宿利 平時の日本であれば、安定的で迅速な輸送は実現出来ており、優れた低温物流技術で温度管理が必要な医薬品等も確実に輸送出来る。しかし、パンデミックや自然災害発災時の輸送には、未だ脆弱な面も有る為、やはり、代替手段やルートを含めた供給網・輸送網の柔軟性と強靭性の確保が不可欠です。

——革新的な交通技術の実用化に向けた課題は。 

宿利 自動運転化等のイノベーションの推進には、現行制度の再構築等の対応が不可欠です。新技術の実用化を見据え、社会実装を前提とした制度の整備を前倒しで進めるべきです。もう1つの課題は、社会的受容性です。日本の社会は或る時期から変革に対して極めて保守的になってしまった。自動運転と言うと、「万が一事故が起きたら誰が責任を取るのか」等の声が必ず上がり、社会実装が中々受け入れられないのが現実です。米国や中国では既に各地で自動運転タクシーが実用化されていますが、日本では最近、日本交通が米国のウェイモと共に東京都心でデータ収集を始めた段階に留まっています。制度の整備と並んで、社会的受容性を高める取り組みが必要です。その為には啓発や啓蒙が重要で、私達運輸総合研究所を含め、国や自治体が、国民に正しい知識と事実を広く伝え、安全性と利便性を丁寧に訴えていく努力が求められます。

——持続可能な公共交通やモビリティの実現に加えて、他にはどの様な取り組みを行っていますか。

宿利 海事・海洋分野の経済安全保障と法の支配に基づく海洋秩序の維持は、海洋国家日本にとって極めて重要なテーマです。エネルギーや食料、鉱物資源の輸入のほぼ全てを海外からの海上輸送に依存する日本にとり、国際情勢の流動化は経済社会基盤の不安定化に直結します。私達は、国際海上輸送ネットワークの戦略的確保やシーレーンの安全保障に関する研究を進めると共に、日米の政府関係者や専門家を交えたシンポジウムを米国ワシントンDCで開催しました。又、脱炭素社会の実現も大きな柱の1つです。IMO(国際海事機関)やICAO(国際民間航空機関)といった国際機関に於けるルール形成に関与しつつ、海運・航空を含む運輸分野全体の燃料転換やカーボンニュートラルの実現に向けた政策提言も行っています。但し、陸・海・空が個別に行動していては十分とは言えず、何れは利用者負担に跳ね返る事から、運輸関係者が分野横断的に連携し、効果的に取り組む必要が有ります。その為の対話と連携の場を、当研究所として提供していきます。 

——海外との連携も重要です。

宿利 当研究所は、米国ワシントンDCに30年以上前から研究所を構えています。4年前にはタイのバンコクにアセアン・インド地域事務所を設立し、ASEAN10カ国とインド、バングラデシュ等の南アジアの国々と連携・協力しつつ、運輸・観光分野について相互に学び合っています。嘗ては日本が先進国として支援する立場でしたが、今ではシンガポールの交通インフラやインドのDX等、日本の現状を上回る分野・国々も有ります。日本も後れを取らない様、積極的に海外の動向や情報を収集し、切磋琢磨する必要が有ります。運輸と観光は、平和無くして健全で持続可能な発展は望めず、米国やアジア諸国との関係を強固にし、太い絆を築いていきたいと考えています。

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